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【哲学】なぜ「役に立たない人」にも基本的人権を認めるべきなのか?−相模原の障害者施設・殺傷事件を受けて

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lady justice

(剣と天秤を持つ「正義の女神」像。目隠しの意味は諸説あるが、現在は「人物の名声を顧慮しない公正さ」と解釈される。)

この文章では、「なぜ「役に立たない人」にも基本的人権を認めるべきなのか?」という問題を、哲学(特に倫理学・政治哲学)として理屈でひたすら考えていきます。

その中で優生学、すなわち「生きる意味のない人間は、他人が安楽死させたほうがいい」という考え方が誤っていることも、理屈で示していきます。

なので、本文は非常に長い文になってしまいました。さっと簡単に内容を掴みたい方は、「結論」のみをお読みいただければ内容はつかめます。

はじめに

神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件は、単なる殺人事件を越えて、「障害者(=社会的弱者)の人権」という、ある意味アンタッチャブルだった議論を広く引き起こしています。

相模原の障害者殺傷事件における犯人の証言

この事件の容疑者である植松聖は、優生学という思想を背景に持っている、と様々なメディアにて指摘されています。

www.huffingtonpost.jp

具体的には

「重度の障害者は生きていてもしかたない。安楽死させたほうがいい」

と犯人は述べています*1

この発言が思想的に「優生学と等価である」と思われます(その根拠は後に示します)。

私は、犯人によるこの証言に対して、自分なりに考えてみました。その結果、私が辿り着いた結論が下記です:

「生きる価値のない人」や「役に立たない人」にも基本的人権を認めるべきだ。そうした方が、長期における社会全体の利益にも、個人の利益にもなるからである。

この記事では、上に示した犯人の発言を、哲学(倫理学)・法学などの観点で分析・批判し、社会思想史や進化論上の考えを引用しながら、私の出した結論を理由とともに示していきます。

忙しい方、よく分からない方へ

最後に書いてある「結論」だけを読めば、だいたいの話はつかめます。

ここをクリックして結論へジャンプ

さらに忙しい方向けに3行で

  • 明日、あなたも障害者になるかもしれないし、一文無しになるかもしれない。
  • だから、「明日の自分」のために、全ての人に基本的人権を認めるべきなのである。
  • たとえ、その人が「生きる意味のない人間」や「役に立たない人間」であっても。

ここからの話についての注意書き

結論は示しました。これ以降は「なぜこの結論に至ったか?」の厳密な話をしていきます。

非常に長文であること、かなり厳密に論じていること、まどろっこしい言い回しを多用していることから、この文章を読むことを全ての人におすすめするつもりはありません。

読むことをおすすめしたい人

  • この問題を理屈で考えてみたい人
  • 哲学や倫理学、人権問題に興味がある人
  • 優生学とその反論に興味がある人
  • 相模原の殺傷事件(後述)に関して、論理的な根拠を持っておきたい人
  • 上記の結論で納得できない人

それ以外の方は、無理にこれからの文章を読む必要はないかもしれません。

覚悟はよいでしょうか?それではまいりましょう。


目次

議論の前に:「重度の障害者」とはどのような人か?

事件における詳細は不明ですが、ひとまず最も重い「重度心身障害者」を想定してみます。

より豊かなイメージを持ってもらうために、臨床像を引用してみます:

  • 姿勢: 殆ど寝たままで自力では起き上がれない状態が多い。
  • 移動: 自力では困難、寝返りも困難、座位での移動、車椅子など
  • 排泄: 全介助(知らせることが出来ない(70%)。始末不可(76%))
  • 食事: 自力ではできない。(スプーンで介助)、誤嚥(食物が気管に入ってしまうこと)を起こし易い。食形態=きざみ食、流動食が多い。
  • 変形・拘縮: 手、足が変形または拘縮、側彎や胸郭の変形を伴う人が多い。
  • 筋緊張: 極度に筋肉が緊張し、思うように手足を動かすことができない。
  • コミュニケーション: 言語による理解・意思伝達が困難、表現力は弱いが、笑顔で応える。
  • 健康: 肺炎・気管支炎を起こしやすく、70%以上の人がてんかん発作を持つため、いつも健康が脅かされている。痰の吸引が必要な人が多い。

参考: 重症心身障害児(者)とは

議論を始めるにあたって、このイメージを大切にしてほしいと思います。そして、以下のことを自分に問いかけてみてください。

  • この人の生活の質(QoL)はどうだろうか?
  • この人に意識はあるだろうか?​
  • 意識が無くても生きるべきだろうか?
  • この人は感情、特に喜びや嬉しさは感じるだろうか?
  • 感情を全く感じないとしても生きるべきだろうか?
  • 突然、あなたが交通事故の被害に遭って、重度心身障害者になったらどんな気持ちになるだろうか?どうやって生きていけるだろうか?

一方で、もしかしたらこの時点で、あなたは「重度心身障害者になった私は、生きる価値も意味もないかもしれない」と思うかもしれません。そのように個人的に思うことは、現時点ではかまいません。(ただし、口に出すのはまた別の問題です。)

そのような素朴な感情からでもいいので、ここを出発点として議論を始めてみましょう。

犯人の証言を分析し、問いを立てる

用語について

以下の議論では、「命題」と「問い」をこのように明確に区別しておきます:

  • 命題: 真偽が明確に決められる言明。ただし真とは限らない。
  • 問い: 必ずしも真偽が明確にならなくてもよい疑問文。

元の命題「重度の障害者は生きていてもしかたない。安楽死させたほうがいい」

以下では、この言明を下記のように分解・言い換えをする:

  • 命題1「重度の障害者は生きる意味がない」
  • 命題2「生きる意味のない人間は、他人が安楽死させたほうがいい」

以上より、犯人が述べた命題全体は「命題1 かつ 命題2」と表現できます。

命題1「重度の障害者は生きる意味がない」

私個人としては、下記が重要なポイントだと思っています。

  • 障害者本人は、どう思っているかが明確に分からないし、それなりに生きる喜びや生きがいはあるのかもしれない。
  • 障害者本人にとっての「生きる意味」は、他人から見ればあくまで推測(蓋然性)に過ぎないし、他人が断定できるものではない
この命題に含まれる問い
  • 問い1「人が生きる意味とは何か?」
  • 問い2「ある人が持つ人生の価値観(生きる意味)を、本人でない別の誰かが勝手に決めることはできるのか?」

命題2「生きる意味のない人間は、他人が安楽死させたほうがいい」

繰り返しますが、ここでいう「生きる意味があるかどうか」は、他人(犯人)の価値観にすぎません。

おそらく犯人にとっては、「自分がもし重度障害者になったら、自分なら安楽死した方がマシだ」という価値観や信念があるのでしょう。

しかし、それは障害者本人の価値観でも意思でもありません。この点は特に注意しましょう。

この命題に含まれる問い
  • 問い3「社会は、「生きる意味のない人間」「役に立たない人間」に対して基本的人権を認めるべきなのか?」
    • 犯人は「認める必要はない」という見解である。
    • これに対して「認めるべき」と論証することが、この記事の結論である。
  • 問い4「もし自分自身が生きる意味がないと思った場合、自分で安楽死(自殺)することは許されるのか?」
    • 安楽死そのものの意義についての問いである。
    • ただし今回は、この問いには答えません。この議論では、単に「安楽死=殺人」としておき、自殺の是非については触れないことにします。

問いに対する私の回答

これから、上記の4つの問いのうち、問い4(安楽死の是非)を除く3つについて、私の回答を示していきます。

問い1「人が生きる意味とは何か?」

この問いには、一般的に言える答えは存在しません。「自分にとっての生きる意味」が、自分の中に存在するのみだと思います。

  • 自分が生きる意味は、自分で考えたり思ったりすることである。
  • 自分が生きる意味は、他人が勝手に定義したり、他人と比較できるものではない。

私は、このように思います。

また、作家の五木寛之はこう言っていて、個人的にも好きな考え方です:

人生の目的は、『自分の人生の目的』をさがすことである

(五木寛之『人生の目的』)

その他、一般論はWikipediaを参照してください(哲学だけでなく、宗教や他分野における見解も載っています)。

もしこの問いに興味のある方は、私のTwitter(@sky_y)やSkypeなどでぜひお話ししましょう。

問い2「ある人が持つ人生の価値観(生きる意味)を、本人でない別の誰かが勝手に決めることはできるのか?」

私は「できない」と考えます。

  • ある人にとっての生きる意味は、その人の中にしかない。
  • その人の価値観に対して、別の他人が別の価値観を安易に強制できるわけではないし、安易にするべきではない。

私は、このように考えます。

社会学者のマックス・ヴェーバーは、『職業としての学問』にてこのような見解を示しています:

これはそもそも自身の価値観の決定あるいは態度決定に関する問いであるので、学問や科学(客観的な知識や視点)は、この問いに対する解答を与えてくれはしない。

(マックス・ヴェーバー『職業としての学問』)

また、憲法学者の長谷部恭男はこのような見解を示しています:

異なる価値観・世界観は、宗教が典型的にそうであるように、互いに比較不能である。しかも、各人にとって自分の宗教は、自らの生きる意味を与えてくれる、かけがえのないものである。かけがえのないものを信奉する人々が対立すれば、ことは深刻な争いとなる。

人生の意味、宇宙の意味がかかっている以上、ヨーロッパの宗教戦争がそうであったように、簡単に譲歩するわけにはいかず、対立は血なまぐさいものとなりがちである。こうした比較不能な価値観の対立による紛争は、21世紀初頭の今も、いまだに世界各地で発生している。

しかし、人間らしい生活を送るためには、各自が大切だと思う価値観・世界観の相違にもかかわらず、それでもお互いの存在を認め合い、社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う、そうした枠組みが必要である。立憲主義は、そうした社会生活の枠組みとして近代のヨーロッパに生まれた。

(長谷部恭男『憲法とは何か』)

問い3「社会は、「生きる意味のない人間」「役に立たない人間」に対して基本的人権を認めるべきなのか?」

私はこのような意見を持っています:

  • 人間であれば、無条件で人権を認めるべき。
  • ただし他害の場合は、法の支配の下で人権は制限されうる。
    • 「基本的人権」と「公共の福祉」はどうしても衝突するため、現代では法に基づく調停により両者を調整する。
なぜか?

今現在において主流な価値観が、今後も永続的に通用するとは決して言えないからです。

例えば、

  • 明日、あなたも交通事故に遭って「障害者」になるかもしれない。
  • 明日、金融市場が突然恐慌に陥り、今までの経済的な価値や資産が無意味になるかもしれない。

そのような、天変地異や異常事態がいつ起こるか分からない以上は、同一人種とか、資本家とか、「健常者」だけの社会は、社会や環境が急変した瞬間に絶滅するリスクが高いと思います。

その対抗策は「多様性を確保すること」であり、それが種としての生存確率を高める−−私はそのように考えます。

例えば、現在のグローバル資本主義が終焉を迎えて、今持っている紙幣が紙くずになったとき、どのような人間や存在や考え方が生き残るでしょうか?

私の考えでは、「普通を逸脱した人間」、例えば今現在は「障害者」と呼ばれるような人間が、この特殊な状況では生き残ると確信しています。(詳しい論証は下記にて。)

補足:いわゆる「権利行使に義務が伴う」という主張について

言い換えると「義務を果たさなければ、権利はない」という主張です。

この主張は、「義務を果たさない」ことは「社会において役に立たない」と言い換えられます。

よって、主張としては命題2「生きる意味のない人間は、他人が安楽死させたほうがいい」と同じ形式といえます。

ただしこの主張は、義務と権利に関するよくある誤解です。既にまとまった考察があるので、これ以上は他の方による論証を参照してください。

dennou-kurage.hatenablog.com

優生学とは何か?

犯人の発言、すなわち命題2「生きる意味のない人間は、他人が安楽死させたほうがいい」に戻りましょう。

これは優生学と呼ばれる思想から導出される主張です。

以下では、「優生学とは何か?」「優生学の何が間違っているのか?」について説明していきます。

優生学の定義と前提

一般に、優生学は「生物の遺伝構造を改良する事で人類の進歩を促そうとする科学的社会改良運動」と定義されます。

優生学の前提は「人間不平等性論」、すなわち「個々人が誕生以前よりその遺伝形質に規定された不平等性を有する」という考え方です。

その根底には、人間を「尊厳」においてではなく、「価値」の優劣において理解する思想があります。

この思想は、異人種間の価値的優劣を主張する「人種主義・人種差別主義」にも通じるものです。

優生学の目的

優生学の目的は、下記の3つとされます:

  • 知的に優秀な人間を創造すること
  • 社会的な人的資源を保護すること
  • 人間の苦しみや健康上の問題を軽減すること

ただし、これらの目的には、不備があることを心に留めておきましょう。

  • 知的さや優秀さは、本当に普遍的・倫理的に「良い」と言えるのか?
  • 何のために、社会は人的資源を必要としているのか?
  • この「苦しみ」は、第三者のきわめて狭い見識による、勝手な評価に過ぎないのでは?

優生学の歴史

歴史的には、優生学はナチス・ドイツにおけるホロコースト(大量虐殺)の根拠でした。

ホロコーストの対象はユダヤ人を中心に、下記に広がっていきました:

  • 障害者(特に成人の精神障害者(T4作戦))
  • 反社会分子とされた人々(労働忌避者、浮浪者、シンティ・ロマ人など)
  • 同性愛者(ナチス・ドイツによる同性愛者迫害(英語版))
  • エホバの証人
  • スラヴ人
  • その他

ここでは、ナチス時代の優生学にはこれ以上触れません。今日では、この古典的な優生学は疑似科学とみなされています。

しかし、現代では、2000年代にヒトゲノムが解明されたことをきっかけにして、「新しい優生学」が既に始まっている−このことが、私の主張したいことの一つです。

ナチス時代との違いは、「新しい優生学」が正しい手続きに基づいた科学に基づいていることであり、標準的な科学的手続きでは反論がほぼ不可能な点です。

ただし、マックス・ヴェーバーが指摘した通り、「科学は価値観に関する問いについては、何も答えない」ことに注意しましょう。価値観の問いは、哲学・倫理学を中心とした人文学の領域で議論すべきだと私は考えます。

「新しい優生学」の具体例をいくつか示します:

優生学は何が間違っているのか?

ここまで見た限りでは(あるいはこの記事を読む前から)、直感として「優生学は何かが間違っている」と思われる方が多いでしょう。*2

しかし、「なぜ優生学は間違っているのか?」と問われると、言葉に詰まる人が多いでしょう。これから、かなりねちっこく、その根拠を挙げていきます。

優生学の誤りを指摘する方針

論理を組み立てるにあたって、前提を明らかにすることは非常に大事です。

優生学の前提を再掲すると、「個々人が誕生以前よりその遺伝形質に規定された不平等性を有する」という考え方でした。この前提自体は性質(〜である)という言明です。

優生学の論理展開のポイントは、この前提から直ちに「だから、良い遺伝形質を残すべき」という倫理・義務論(〜すべき)にジャンプすることである。ここがまず、誤りです。これは哲学用語で「自然主義的誤謬」といいます(誤り1)。

次に「遺伝」という考え方に着目します。これはぱっと見、ダーウィンの進化論 からの類推に見えます。ただし、その解釈において優生学は大きな誤りを犯していると思われます。その誤りとは、「誕生以前より規定された遺伝形質」に、「強い/弱い」や「高等/下等」といった価値観を当てはめていることです(誤り2)。

ここからは、いま示した「誤り1」と「誤り2」について、順に詳細な反証をしていきます。

優生学の誤り1: 自然主義的誤謬

「生物学上の事実や解釈をもとに人間の倫理観や道徳的価値観を導き出そうとする」ことを、哲学用語で自然主義的誤謬といいます。

一般に、「である(be)論」から「べき(ought to)論」を導出してしまう、という形式の誤謬(ごびゅう、論理的な誤りの一種)をいいます。

  • 注意: 本当にこの形式が誤謬なのか?という議論もサールなどからあります。つまり、「である論」から「べき論」を導いても、特に論理的におかしくないケースもあるし、その必要が便宜上あるケースもあります。いずれにせよ、「である論」から「べき論」を導くことは、かなり慎重にするべきことなのには変わりありません。

例えば、日本の教育現場では、この手の誤謬はしばしば暗黙に用いられます。

母親が子どもを見捨てずにカゴの外からでも給餌する、という行動(である論)から、母親の愛情(べき論)というものを小学生たちに教えようとした

出典: 七章 社会の中の進化論(河田雅圭 はじめての進化論)

優生学においてもこの誤謬があります。永井俊哉による見解を参考までに示します:

優生学的思想の根本的な問題は、「優れている」とか「劣っている」といった私たちの価値判断は必ずしも正しくないというところにあります。

私たちの社会システムが、すべての生命を形式的には平等に扱い、多様性を肯定するのは、人間の認識能力が有限であるがゆえに理にかなったことなのです。

安楽死について | 永井俊哉ドットコム

このように優生学は、自然科学上の進化論(である論)から倫理的価値観(べき論)を導きだそうとした。だから「優生学の論理には、自然主義的誤謬がある」と言えます。

優生学の誤り2: 「進化」という言葉の誤用

進化論は、非常に誤解や拡大解釈が多い理論です(私も正直、あまり深く理解はしているわけではありません)。

ここでは、優生学が援用した「進化論」も、「誤解された進化論」であったことを示していきます。そのために、まずは「元々ダーウィンは何をどのような言い回しで言ったのか?」を注意深く知る必要があります。

2つの進化論

有名なダーウィン の進化論自然選択説適者生存説)によれば、「生物の種が分岐的に変化し、各生物がそれぞれ独自に環境に適応していく」のが進化である、と彼は述べています。

一方、進化論には、ダーウィンよりも前に確立したもう一つの系統があります。それがラマルク の進化論です。彼は下等から高等へと前進・進歩することが進化である、という主張をしました(これをラマルキズムという)。現在はダーウィン説が主流であり、ラマルク説は生物学としてはほぼ否定されています。

特にナチスの優生学は、ラマルクの考え方をヘッケル が社会進化論にまとめたものです。彼は「強い国家が弱い国を支配する」「優秀な人種が他の人種を圧倒する」という主張をしました。

ダーウィンの進化論を正しく理解する

ダーウィンの進化論に戻りましょう。彼は、「存在し続けるための努力」に努める生物の個体のうち、「最も環境に適した形質をもつ」個体が生存の機会を保障される、と主張しました。

この「最も環境に適した形質をもつ」の解釈が重要で、慎重に理解すべきポイントです。

ダーウィンの主張する適者生存説 によれば、「最も環境に適した形質をもつ」個体とは、環境にもっとも適応した結果の適者のことをいいます。適応に対しては、「強い/弱い」や「高等/下等」といった価値尺度は意味がありません。

実際、「知的」で「力が強い」種が、環境に適応できずに絶滅することもあるし、「下等」で「力が弱い」種が、環境に適応して生き残るということもありえます。

逆に言えば、ダーウィン進化論は下記のようなものではありません

  • 「適応」は「完璧」と言う意味ではない
    • 適応を形作る要因は主に種内の個体間競争であり、算術平均的に他の個体(あるいは他の生物)よりも生存と繁殖に有利であることを意味する。
  • 「捕食者=強」でも「被捕食者=弱」でもない
  • 「適者=強者」でも「弱肉強食」でもない

以上をまとめると、「適者」の解釈を誤解した結果が、ラマルキズムに基づく進化論をベースにした優生学であるといえます。

以上の「誤り1」と「誤り2」の反証により、「優生学は間違っている」ことが示されました。

したがって、下記のように「優生学の目的」も疑わしくなってきます。もちろん、これらを考えることも重要ですが、この考察は機会を改めます。

  • 「人間は知的かつ優秀であるべきか?」
  • 「何のために、社会は人的資源を必要としているのか?」
  • 「人間の苦しみや健康上の問題を軽減することは、本当に常に正しいことなのか?」

この説のまとめとして、ダーウィンの進化論が「人間の価値」について示唆することを端的に述べておきます(「人間の価値の定義」ではないことに注意)。

それは、「社会における人間の価値を、少数の者や短い時間スケールでの価値観で判断することは、到底うまくできないだろう」ということです。

では、我々が持つべき倫理とは何か?

優生学は前節で棄却されました。しかし、我々が暮らす社会を維持するためには、ルールが必要です。

現代の民主主義国家では「法の支配」、特に憲法がその役割を果たします。その憲法を作るためには、やはり倫理が必要です。

例えば、日本国憲法は1947年に施行されましたが、その法学的な仕組みは驚くほど巧妙にできていることが、後の憲法学者によって示されています(参考:伊藤真『伊藤真の憲法入門』)。そして、日本国憲法の施行後に、政治哲学者のロールズ が出した『正義論』(1971年)は、日本国憲法とも深い親和性があります。ロールズは現在、それ以前と以後を分けるぐらいに、政治哲学上で重要な立ち位置を占めています。

議論の締めくくりとなるこの節では、「我々が持つべき倫理(べき論)とは何か?」という問いに対して、暫定的な結論としてロールズの『正義論』を取り上げます。

注1: ロールズの論証は、自然主義的誤謬をうまく回避するように考えられているが、その詳細は割愛する。

注2: 私自身も、納得できる結論は得られたわけではない。この問題は引き続き考えてみる。

正義の二つの原則

詳細な議論は省きますが、ロールズはこれまでの哲学・倫理学をベースにして、慎重な論理に基づき「正義の二つの原則」を導出しました。

(1) 法的政治的な正義の原理

各人格は、他の人格の同じような権利と両立する最大限の基礎的自由に対する平等な権利を持つべきである。

(参考:日本国憲法の関連する条項)

  • 第97条
    • この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
  • 第11条
    • 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
  • 第13条
    • すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
(2) 社会的経済的な正義の原理

注意: (2-1)と(2-2)は、同じことを言っている。

  • (2-1) 社会的経済的不平等は、その不平等が、(a)全ての人の利益になるように正当に期待され、(b)全ての人に開かれた地位と役目に施されるように手配されるべきである。
  • (2-2) 社会的経済的不平等は、その不平等が、(a)最も不利益を被っているものの最大の利益となり、かつ(b)公正な機会均等の条件下で全てのものに開かれている役目と地位に施されるように手配されるべきである

(参考:日本国憲法の関連する条項)

  • 第22条
    1. 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
    2. 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。
  • 第29条
    1. 財産権は、これを侵してはならない。
    2. 財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める。
    3. 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる。

解説

この「正義の二つの原則」を中心にして、ごく簡潔にロールズの主張を説明してみます。

ロールズ曰く「合理的な個人は、すくなくとも自分と他人の相違が不正の結果であるとは考えられず、かつある限界を越えないかぎり、嫉妬に陥いることはない」
  • 自然が各人に才能や財産を平等に分配していないことは確かであるが、そのような不平等性は自然的事実であって、不公正ではない。
ロールズ曰く「二つの原則は、運命の恣意性に対処する公正な方法であって、これらの原則を満たす制度は、他の点では疑いなく不完全であるにせよ公正なのである。」
  • ロールズの正義論は、自由主義経済を強く肯定する。
  • 不平等の拡大を帰結する資本主義的経済の肯定は、全体の労働の生産性を高めるため、不平等の縮小を帰結する、という論理である。
    • それは公正であるとするが、不完全である可能性は否定しない。

注: 私個人の意見としては、「資本主義的経済が進んだ結果、全体の労働の生産性が大して高まらない事態になった」場合は、この論理は破綻するのでは無いか?と疑っています。(この議論は割愛し、またの機会に取り上げたいです。)

ロールズによれば、「不平等が最も不利益を被っているものの最大の利益となる」のだから、正義の原則は「運命の恣意性」を矯正していると言える。
  • 固定的な悪平等は、強者にとってはもちろんのこと、弱者にとっても望ましくない。
  • 貧富の差の固定化も、弱者にとってはもちろんのこと、強者にとっても望ましくない。
  • 社会の大多数が経済的弱者であることも望ましくない。

うまく設計された自由主義経済は(見えざる手により)上記の基準をうまくクリアしてくれる、とロールズは考える。

日本国憲法の考え方も、実はロールズの正義論と相性が良い。
  • 日本国憲法では、憲法が最高法規となり、個人の権利と自由を保証する。
    • ロールズの正義論では「(1)法的政治的な正義の原理」に相当する。
  • 日本国憲法の第22条と第29条は、あわせて「経済的自由権」と呼ばれる。
    • ロールズの正義論では、これは「(2)社会的経済的な正義の原理」に相当する。

以上のように、優生学に代わる「新しい倫理」として、ロールズの正義論が妥当であることを説明しました。

ただし、これは私の一つの主張にすぎず、唯一の正解ではありません。しかし私の意見としては、現代社会においても、この正義論は十分妥当な倫理だと思われるし、現代日本が採用する日本国憲法を考える上でも強力なツールとなると思います。

結論

議論のふり返り

この記事で述べたことを、改めてふり返ってみましょう。

  • 冒頭の犯人は「重度の障害者は生きていてもしかたない。安楽死させたほうがいい」と述べた。
  • この考え方は、「人間を「尊厳」においてではなく、「価値」の優劣において理解する思想」という点で、優生学と等価である。
  • 優生学は、二つの観点で誤りがあった。
    • 一つは、「である(be)論」から「べき(ought to)論」を導出してしまう、自然主義的誤謬に陥っていたこと。
    • もう一つは、進化論に対する誤解に基づくもの、すなわち「適応」の解釈を「強い弱い」の価値尺度としてしまったこと。
  • 優生学に代わる「新たな倫理」として、ロールズの『正義論』、特に「正義の二つの原則」を紹介した。
    • (1) 基礎的自由に対する平等な権利の保証
    • (2) 次の2つを満たす経済システム
      • (a)最も不利益を被っているものの最大の利益となる
      • (b)公正な機会均等の条件下で全てのものに開かれている役目と地位に施される
    • 日本国憲法は、実はロールズの正義論と親和性が高いことも示した。

論証としては以上です。ここから、私の意見を述べて、記事を終わりにしたいと思います。

まず、犯人の「障害者」観は、その犯人の主観にすぎません。犯人はその主観を「真実」と錯覚し、彼は障害者を殺しました。

素朴な価値観、例えば「強い人間が良い人間」「役に立つ人間が良い人間」といった考え方は非常に分かりやすいです。何も考えず何も苦労してこなかった人にとっては、むしろ「普通の考え方」かもしれません。「普通の人」ならうっかり受け入れてしまいがちな考え方でしょう。

しかし、物事は広く長い目で見る必要があります

  • もしあなたや、あなたにとって大切な人(家族、友達、仲間など)が、突然事故に遭ったり病気に遭ったりしたら?
    • その結果、その人が重度の障害を負うことになったら?
    • そのような状況で、あなたは何を望むだろうか?
    • そのような状況でも幸せに暮らすには、どうしたらよいだろうか?
  • もし天変地異による環境変化や、世界恐慌が突然起こったら?
    • そのような状況、あなたの財産や社会的地位は無事でいられるだろうか?
    • そのような状況で生きのびるためには、どうしたらよいだろうか?

例えば、進化論はその答えの一つとして、「多様性を広げてきた生態系は、長く生き延びた」という事実を、「である論」として提示しています。

  • 注意: これを倫理という「べき論」に変換するには、細心の注意が必要でです(自然主義的誤謬に陥るので)。

明日、あなたも障害者になるかもしれないし、一文無しになるかもしれない。だから、「明日の自分」のために、全ての人に基本的人権を認めるべきなのです。

たとえ、その人が「生きる意味のない人間」や「役に立たない人間」であっても。


最後に、私がTwitterの固定ツイートとして掲示し続けている「自分の信念」を述べて、筆を置くことにします。

  • 幸せは主観的なもの。他人が決めたり他人と比べられるものではない
  • 人間らしさは、遊びとしての非効率性や非合理性に宿る
  • 人間という目的のために、社会は手段であるべき。社会という目的のために、人間を手段にしてはいけない

藤原 惟


参考文献

本文で参照した文献

永井俊哉『言語行為と規範倫理学』

マックス・ヴェーバー『職業としての学問』

職業としての学問 (岩波文庫)

職業としての学問 (岩波文庫)

五木寛之『人生の目的』

人生の目的 (幻冬舎文庫)

人生の目的 (幻冬舎文庫)

ロールズ『正義論』

正義論

正義論

  • 作者: ジョン・ロールズ,川本 隆史,福間 聡,神島 裕子
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2010/11/18
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伊藤真『伊藤真の憲法入門』

伊藤真の憲法入門[第5版]  講義再現版

伊藤真の憲法入門[第5版] 講義再現版

本文で引用しなかったが、参考になりうる文献

米本 昌平ほか『優生学と人間社会』

優生学と人間社会 (講談社現代新書)

優生学と人間社会 (講談社現代新書)

『帰依する世紀末』

帰依する世紀末―ドイツ近代の原理主義者群像 (MINERVA歴史叢書クロニカ)

帰依する世紀末―ドイツ近代の原理主義者群像 (MINERVA歴史叢書クロニカ)

補足: 『帰依する世紀末』について

19世紀末のドイツで生まれた「エコロジー思想」と「ナチズム」という一見別に見える流れを、「原理主義」という一つのキーワードで追う名著。

ラマルク進化論を優生学に仕上げたヘッケルのエピソードが興味深い。彼は元々冷徹なほどの科学主義者だったが、当時はそれ以上分割できなかった「分子」という単位をさらに分割しようとした結果、「その先は宇宙と同一である」(ホーリズム・一元論)というオカルト的な論理の飛躍に達した。

*1:後に報道された「手紙」など、犯人による他の言動については、ここでは言及しない。

*2:ただし、「優生学」という単語が「レッテル貼りの道具」に使われることも考慮しましょう。つまり「あなたのその考え方は、優生学である」という発言は、レッテル貼りと区別がつきません。逆に「いやいや、私の考えは優生学ではない」という主張も容易にできてしまいます。参考: ラベリング理論 - Wikipedia