サードウェーブ系哲学的ゾンビ

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弔うことは、思い出すことである。— 1.17 阪神淡路大震災について —

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昨年12月に、私は再び兵庫県民になった。

とはいっても、大阪からの引越なので距離はそんなに変わらないが、しかしアイデンティティとしてはかなり違う気がする。

そして今年も、あの日が巡ってきた。


阪神淡路大震災当日『おはよう朝日です』

私と震災

幸いにして、私の住んでいたところは被害が少なかった。とはいえ、「テレビがテレビ台から飛び出した」程度には、それなりに揺れた。

それから数年経ち、私は神戸市・長田区で生まれた育った友人と出会った。彼の家は本当に根本からなくなったようだった。その記憶を語ることは彼自身もあまりないが、物静かな彼が心を揺るがすほどのことであったらしい。

ちなみに、長田区は見違えるほど美しくなった。かつてあった商店街や街並みすら忘れさせるほどに。

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(新長田駅若松町、1995年1月18日)

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(JR新長田駅前、2006年)

※ 以上は 阪神・淡路大震災「1.17の記録」 より(ライセンス: CC-BY)。

弔うことは、思い出すことである。

ここで「弔う」ことについて考えてみたい。まずは参考のために、あるエッセイを引用しよう。

「弔い」は「人の死を悲しみいたむこと」であり、「悔やみ」は「人の死を惜しんで、とむらうこと」(いずれも岩波国語辞典)、何やらよく似ている。だから「友人の死を弔う」とも「友人の死を悔やむ」とも言う。いずれも「葬式」の意味でも用いられる。

 だが、私の感じでは少し異なる。 「弔い」は死者のために遺された者のなす行為であり、「悔やみ」は遺族に対してなす行為ないしは言葉であるように思う。これはどれだけ客観性をもつか、はなはだ自信がないが、私にはニュアンスの違いがある。  葬式とは元来この2つの意味があったのではないか。つまり死者に対して悲しみ惜しむことと、遺族となった家族の心情をを慮る、という2つの面である。

(出典: 弔いと悔やみ(『SOGI』通信 No.30、表現文化社)

一方、私は「弔うことは、思い出すことである」と考えている。

これは、私の友人である青の詩人が、志半ばでこの世を去った際に考えたことである。

この「思い出す」という定義は、先の引用にあった「死者のために遺された者のなす行為」にも当てはまる。その意味で、大きく外れてはいないと思う。


なぜ我々兵庫県民は、1月17日が来るたびに震災のことを思い出すのか。それは、あの日なくなった方を思い出すためであり、あの日から続く辛かったことや嬉しかったことを思い出すためでもある。

だから、我々は5時46分に合わせて黙祷する。それができない人も、それなりに思いを巡らせる。ただ「思い出す」ことが大切なのだ。

(なお、黙祷は強いるものではない。強いたところで意味がない。「自ら祈る」ことでしか意味をなさない行為である。)

最後に

この曲だけはどうしても紹介したい。

『しあわせ運べるように』


復興のシンボル曲『しあわせ運べるように』~神戸から東日本、日本各地、世界へ~

この曲は阪神淡路大震災の復興を願って作られたものである。神戸では毎年歌い継がれてきたが、東日本大震災の際には歌詞を変えて更に広められた。

どのように歌われ広まったかは、「しあわせ運べるように」公式サイトを直接ご覧いただきたい。

藤原 惟 2017.01.17